「エビデンスを気にする人は、患者を見ていない」
先日、SNSでこんな投稿を目にしました。コメント欄には「エビデンスなんて必要ない」「患者さんが治ればそれでいい」という声がずらり。
正直、僕はこの意見に違和感を覚えたんですよね。
施術やにおけるエビデンス(科学的根拠)の必要性について、僕なりの考えをお話しします。
エビデンスとは何か?身近な「研究の裏付け」
そもそもエビデンスって何でしょうか。
簡単に言えば、研究によって裏付けされた情報のことです。「この方法で治療すると、これくらいの期間で回復する」「このリハビリを行うと、回復が早まる」といった具体的なデータですね。
たとえば、肩関節の損傷や足首の靭帯を痛めたとき、どんな過程でリハビリを進めれば、だいたいどれくらいで治るか。こうした目安があるのは、研究の積み重ねがあるからなんです。
「治ればいい」は本当にそれだけでいいのか
一般の方からすれば、「とにかく治ればいい」というのが本音だと思います。
極端な話、「この薬草を食べたら自律神経の不調が一発で治ります」と言われたら、エビデンスがなくても試してみたくなりますよね。僕もその気持ちはよくわかります。
ただ、現実はそこまで都合よくいかないことがほとんど。だからこそ、ある程度の指針となるエビデンスが必要になってくるんです。
エビデンスを「否定する」のは違うと思う理由
僕が気になったのは、エビデンスを完全に無視したり、否定したりする姿勢です。
たとえば、足首の靭帯を損傷した人がいたとします。エビデンスに基づけば、適切なリハビリを経て段階的に復帰するのがベストですよね。それをすっ飛ばして、いきなり競技復帰するのは現実的に難しい。
あるいは、タバコを吸う人が吸わない人に比べて肺がんになりやすいというのも、研究で明らかになっている事実です。
こうした身近なところにも、エビデンスは存在しているんですよね。だから「エビデンスなんていらない」と言い切ってしまうのは、ちょっと違うんじゃないかなと。
でも、エビデンスがすべてではない
一方で、僕はエビデンスがすべてだとも思っていません。
たとえば、高校野球の夏の予選が来週に迫っている選手がいたとします。「肘の痛みを来週までに治してほしい」と言われても、エビデンス的には3ヶ月の安静とリハビリが必要だったりする。
でも、その子にとっては人生最後の高校野球。甲子園をかけた試合なんです。
そういうとき、本人の意向を尊重して、できる処置をしてあげることもあります。テーピングで何とか投げられるようにするとか。エビデンスから外れることを、あえて選ぶ場面も実際にはあるんですよね。
人間の体は、すべてが理屈で説明できるわけじゃない
めちゃくちゃ腰痛がひどくて、立ち上がるのも辛いという人がいたとします。でも、その人の目の前に大好きな推しが現れたら?たとえば大谷翔平選手が「ちょっと立ってみましょう」と言ったら?
きっと、痛みを忘れて立ち上がると思うんですよね。
ちょっと極端な例ですけど、人間の体って感情や状況によって大きく変わるもの。すべてをエビデンスで説明できるわけではないんです。
東洋医学なんかも、科学的なエビデンスはまだ薄い部分があります。でも、2000年、3000年という歴史の中で積み重ねられた経験がある。実際に僕も、東洋医学的なアプローチで体が変わったお客さんを何人も見てきました。
大切なのは「柔軟な思考」を持つこと
結局のところ、エビデンスが悪いわけでも、エビデンスがすべてでもない。
お客さんが良くなればOKかというと、お客さん側の視点ではそうかもしれません。でも、施術する側としては、ある程度の理屈と理論があった上で施術をする方が、結果的にお客さんを守れると思っています。
エビデンスを否定するのも違う。
でも、エビデンスだけに縛られるのも違う。
お客さんの状況、感情、これまでの経験。そういったものを統合して、ベストな提案をする。この感覚がすごく大事なんじゃないかなと。
まとめ:研究も経験も、どちらも活かしていこう
「エビデンスばかりの人は患者を見ていない」という意見には、僕は賛同できません。
むしろ、患者さんを守るためにこそ、研究やデータは大事だと思っています。健康になりたい人に「タバコ吸っても大丈夫ですよ」とは言わないですよね。
ただ、現場では理屈通りにいかないことも多い。だからこそ、エビデンスと経験、お客さんの気持ち。これらをバランスよく組み合わせていくことが、僕たち施術者に求められることなんだと感じています。

